2025.08.20(Wed) 活動報告

大人になって初めての『沖縄平和学習』

私は沖縄の歴史も、沖縄戦のことも、基地のことも心から知ろうと思ったことが今までありませんでした。学生時代に『ひめゆりの塔』のお芝居で安里幸子さん役を演じたくらいで、会派代表杉谷さんはずっと基地問題に取り組まれているにも関わらず私は向きわずに2年が過ぎました。

正直、難しい問題の様に感じて我が事にはなっていなかったのです。

そんな私が沖縄を知りたくなったのは、大学院7月の研修で沖縄に行った際に、折角だからと以前研修でご一緒だった宜野湾市議会議員座間味かずかさんに連絡をしたところから始まります。先月沖縄に行った際に、座間味かずか議員が『平和の礎』に連れて行ってくださいました。そしてかずかさんが住む宜野湾市には普天間飛行場があり、基地問題の話しもしてくださいました。

https://www.pref.okinawa.jp/heiwakichi/jinken/1008269/1008287/1008288/index.

7月に連れて行ってくださった平和の礎では、かずかさんの親戚の方々の名前が記されていること、基地の問題、沖縄の歴史を伺う中で、今まで難しそうだと遠ざけていたかもしれない沖縄をもっと知りたいと思いました。

今回、8月17日~19日が大学院の沖縄研修だったので、この機会に沖縄を知ろうと思いかずかさんに再度ご連絡。

お忙しい中8月16日に宜野湾市議会議員で同じ会派のプリティ宮城ちえ議員も同行してくださいました。ちえさんは元々教師で平和学習にも携わってこられている経緯もあり、この日も一日リードしてくださいました。

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前日に沖縄市戦後文化資料展示館ヒストリートで予習が少しできた私を先ず、沖縄県平和資料館へ連れて行ってくださいました。ここは平和の礎にい隣接している県が建てた施設です。前沖縄知事の強い想いがあって実現した場所だと伺いました。そう思うとトップの価値観は本当に大切だと思うのです。

沖縄県平和資料館では毎年6月23日に平和を祈る式典が開催されるそうです。https://www.peace-museum.okinawa.jp/

沖縄では民間人の4人に1人が亡くなりました。沖縄戦の特徴は、軍人よりも一般人の戦死者がはるかに上回っていること。その数は10数万人に及ぶそうです。沖縄県民は想像を絶する極限状態の中で戦争の不条理と残酷さを身をもって経験されたと記されています。このような経験があるからこそ、『沖縄のこころ』人間の尊厳を何よりも重くみて、戦争に繋がる一切の行為を否定し、平和を求め、人間性の発露である文化をこよなく愛する心があるそうです。

資料館では戦争経験者の手記を読みながら二度と同じ過ちを犯してはいけないと思いました。驚いたのが『防空壕等に日本兵がきて民間人を追い出した』とか『こどもが泣いてうるさいと日本兵が静かにしろと殺した』『敵より日本兵の方が怖い』という学生さんの手記もありました。戦争は自分の命すらどうなるかわからない、人間が人間ではなくなってしまう恐ろしいものだと思いました。この手記を読んだ私は、同じ日本人なのに酷いと感じましたが、その場になったときにどんな行動をとるのかは、誰にも分からないと思うのです。

あひるさんが寄ってきました。かずかさん、ちえさん本当にありがとうございました。

次に訪れたのはひめゆり平和祈念資料館

http://www.himeyuri.or.jp/top.html

ひめゆりの塔は1945年の沖縄戦で無くなった沖縄師範学校女子部・沖縄県第一高等女学校の生徒や教師のための慰霊碑です。那覇市安里の校舎で13歳~19歳の生徒約1150人が学んでいました。沖縄戦では240名が沖縄陸軍病院に動員され、136名が亡くなったそうです。それ以外にも91人が沖縄戦で亡くなられました。

将来学校の先生にになろうと志していた彼女たちの人生を思うと胸が張り裂けそうです。いつの時代に、どこに生まれるのかを私たちは選ぶことができません。だからこそ、今生かされている私達は、無念に一生を終えた先人のためにもしっかり生きていきたいです。

プリティちえさんが教えてくださったこと。ひめゆり学徒隊が余りにも有名になりましたが実は他にも多くの学徒隊があったこと。『ずるせんの塔』にはちえさんのお母様のお友達のお名前が記されていると教えてくださいました。

最後に訪れたのは【糸数アブチラガマ】です。

https://abuchiragama.com/

こちらのガマは自然の洞窟。沖縄戦ではこの洞窟が当初は日本兵の宿、日本軍の作戦陣地、最終的には陸軍病院の分室となりました。全長270メートルの自然の洞窟(ガマ)。昭和20年5月1日からは軍医・看護婦・ひめゆり学徒が配属され、地域住民も共に暮らしていました。5月25日に南部への撤退命令により重症患者が置去りになりました。その後米軍の攻撃にあいながらも奇跡的に生き残った負傷兵と住民が8月22日にガマを出たそうです。

沖縄戦とは・・・太平洋戦争の最終段階1945年3月下旬~7月までの戦いを言うそうです。90日間の渡る沖縄戦で日本兵6万6千人、沖縄出身平2万8千人、米兵1万2千人、一般市民9万4千人が犠牲になりました。当時の県民人口が約50万人だったことを思うと、本当に多くの県民が犠牲になったことがわかります。ガマではちえさんのお友達がガイドを務めてくださいました。

中は真っ暗。ひめゆり学徒も一生懸命負傷者のお世話をしていた場所です。破傷風の患者等の下の世話。ウジ虫の除去。想像を絶します。自然が創り上げた自然の洞窟は本当に神秘的な空間でした。空気穴付近には爆弾が投げ込まれたことがわかりました。天井が真っ黒に焦げているからです。

ガマで生き残った日比野勝廣さん著書『今なお屍(かばね)とともに生きる』を移動中に読んでいます。日比野さんの書物の中で印象的だったのは、日比野さんは破傷風で動くこともできず、もう助からないとされてゴウに取り残されるのですが、爆風で吹き飛ばされて井戸の近くに吹き飛ばされ、そこから周りの仲間にも水をあげたいと動かない身体を引きずりながら運び、ゴウの中で置去りにされた県民から感謝される日々を過ごす中で、破傷風も治っていくさまが記されていました。人体は本当に不思議で、化学で証明できないことが本当に多いと思います。

またこの本を出版れた翌年に日比野さんはお亡くなりになられていますが、書物の中でお嬢様が寄稿されており印象的だったのが、お父様から戦争が離れることはなかった。夜はうなされたい、真っ暗な苦手で夜も電気をつけて眠る。1人になるのが苦手。戦争経験者の戦争は死ぬまで続く。自分だけが生き残ったという申し訳なさ。日比野さんは亡くなるまで毎年沖縄に通われたそうです。そしてお嬢様が記されていた言葉に、国の命令で戦場にいった一兵士を責めないでほしいという言葉も印象的でした。私達日本も他国でアメリカと同じことをしたことを思うと、世界中皆で反省し、二度と同じことを起こさない世界をつくると誓い合いたいものです。

ガマに入る前にも『今日は京都からお一人、日野湾市からお二人いらしています。どうぞよろしくお願いいたします』とあいさつをさせていただいてから入らせていただきました。

たった80年前の出来事です。たったの80年。戦後100年という言葉を言えるように、私たちは改めて戦争をしないと決断しなければなりません。

戦争は何があってもしてはいけない。今回の学びの中で強く強く誓いました。

またこんなにも大切な平和教育が市町村ごとに全く異なることに対しても危惧しています。向日市では平和学習ができているのか?他市町では修学旅行で広島、沖縄、長崎を訪れるところもあります。全ては教育であり、平和を守る為にも努力が必要です。

最後に・・・

沖縄には聞きなれない国からの補助金があることを今回の視察で知りました。最終日に出向いた北中城村が今後実施するバイオマス発電を用いた農業と住宅の融合にも沖縄振興一括補助金が活用されると伺いました。沖縄アリーナも同様の国からの補助があります。

https://www8.cao.go.jp/okinawa/kouhukin/index.html

https://www.city.okinawa.okinawa.jp/k003/tokushuuichiran/okinawaarena.html

私がずっと見つめている東日本大震災後の福島にも同様に国からの補助金が多く入っています。原発が誘致されて、存在する町にも国からの補助金が多く入ります。

私達日本国民が収めた税金をどの様に使うのかを決めるのが政治家の仕事です。そしてその政治家を選んでいるのも私達国民です。

お金お金お金 確かにお金は大切。しかしお金お金で進んできた今、日本は心から豊かな国になっているのか?結局は政治だと嘆き、政治の世界に入ってみた私は、国の大きさをを感じています。でも国を創っているのも私達一人一人だということを忘れてはいけません。

今まで福島の信の復興なしに、日本の復興はないと思ってきましたが、沖縄を身近に感じだした私は、沖縄の信の復興なくして、日本国の未来はあるのか?と感じています。

100年先はミンナソラノシタ幸せな社会でありますよにと、全てのご縁に感謝して、私は置かれた場所で自分にできる最善を尽くします。

微力だけど無力じゃないと信じています。

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